2024年4月28日ルカの福音書第36講 人の子の前に立つことができるように

2024年ルカの福音書第36講(♪149)

人の子の前に立つことができるように

御言葉/ルカの福音書21:5‐38
要 節/ルカの福音書21:36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

今日の御言葉は、いわば人類最後の日、さばきの日を想像する内容として、よく使われています。私は災難の映画が好きで、地球が滅びる映画に興味があります。インデペンデンスデイ、サルの惑星。しかし、これらのことが映画でのエンターテインメントなら、楽しいですが、実際起こると大変なことになります。今日の御言葉はエルサレムの滅亡の内容ですが、しかし、それにとどまらず、週末のことの話にもなります。非常の恐ろしく、怖い話になりますが、むしろこれは希望の御言葉でもあります。今日の御言葉を通して、週末を生きているわれら、どのような姿勢で過ごすかを学ぶことができるように祈ります。

 

今日の御言葉になる、エルサレムの滅亡は、実際、66年から、74年に起こった事件です。エルサレムは救い主、イエス様を十字架につけて、罪のない人を殺す対価を受けるようになります。ローマ軍にエルサレムは包囲され、10万人の兵士が打つ、矢によって、太陽が暗くなり、ネズミ一匹も逃げることのできない包囲網の中で、人々は飢え死にするしかありませんでした。あまりにも残酷なローマ軍の掃討作成により、建物も粉粉に破壊されました。イエス様の40年後の起こったこの事件を、イエス様は預言しながら、エルサレムだけではなく、人類の滅亡まで預言し、その状態が全く一緒であることを伝えました。70年のエルサレムの滅亡と、やがてくる週末を思い出しながら、今日の御言葉を黙想すれば、と思います。

 

5節をご覧ください。さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々がありました。昔も今も、宮は必ず金で飾られています。日光の東照宮行ったことありますか?今は金箔ですが、昔は本当に金だったそうです。今のエルサレムのドームも、金で飾られています。エルサレムの柱は、大理石などの高価な石でできています。特に神殿は神様がいるといわれているので、人間が住むところより、より派手に作ります。田舎出身の弟子たちが見たら、感動しますね。見るだけで、神様が守ってくださりそうな、迫力を受けます。その理由なのか、人は神殿だけはできるだけ、派手に、また、高く作ろうとします。

しかしイエス様は何と言われましたか。6節をご覧ください。「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」

イエス様はこれが崩れるといっています。この栄光に輝く神殿が崩れるとは、ユダヤ人の誰も考えられませんでした。特に神様がいるところなので、絶対崩れることはないと考えていたでしょう。イエス様の話は否定したくなる嫌な内容です。皆さんも教会来て、あなたは祝福されるよという話を聞きたいでしょう。あなた滅びるよなどの御言葉は嫌ですね。しかし、イエス様は、これは絶対起こることとして話をしています。もし、こんな悲惨なことが起こるとしたら、そのようなとき、一番知りたいものは何ですか?それは「いつ」起こるかです。

 

7節をご覧ください。そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」皆さんは、どうですか?終わりが来るよと言ったら、一番知りたいのが、「いつなの?」でしょう。弟子たちも、われらと考え一緒でした。時期がわかれば、何とか、対策とれると思っていたからです。しかし、いつより、より大切なものがあります。

8節をご覧ください。イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。」終末になると人々は続く災難によって恐れや不安を覚え、何か頼るものを捜し求めます。このような人々の恐れや不安な心を利用して偽救い主が現われます。私こそ、そのものだといいます。この人は人々を惑わしてその人を滅びに至らせるからです。偽キリストという、イエス様の名を名乗るものが、次々現れます。それで、偽りの希望を与えるので惑わされやすいです。当時のイスラエルは、ローマに反乱を起こしたメナヘムという人をメシヤとして、勘違いしたそうです。なぜなら、ローマ軍は駐屯しているアントニア要塞を占領し、ヘロデ宮殿まで、占領し、まさに、イスラエルを救う解放者のようになったからです。占領君であるローマにも勝って、政治、宗教を握るようになると誰もが、彼を救い主と思うでしょう。かれによって、当時の人は希望を見ました。しかし、これは偽希望でした。これによって、ローマのネロ皇帝は、10万人特殊部隊を送ることになり、エルサレムは破壊されます。今の時代はどうですか、週末になればなるほど、偽キリスト、偽救い主が現れます。最近統一教会問題で、自民党が揺れていますね。それだけではなく、日本は、数多くの宗教があり、私こと、それだ!と叫んでいます。人々を誘惑しています。自分の後輩がいきなり、キリスト教から、イスラムのほうに改宗すると連絡がありました。イスラムは、奥さんが4人まで持てるからだそうです。彼にとっては、一夫多妻が救いの道だったでしょう。このように、週末になるほど、人々を誘惑するものが多く現れます。混乱な時、誰かが、私たちにお金をあげて、誘惑するかもしれません。人の力によって、何かを希望を与えるかもしれません。イエス様は言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。

週末になると、偽救い主だけ現れるものではありません。9,10節をご覧ください。戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、

戦争や暴動が起こります(9)。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がります(10)。去る4,000年の間戦争がなかった時期はわずか268年だけでした。第一次世界大戦と第二次世界大戦が起こりました。今の時代はどうですか。ロシアがウクライナと戦争し、毎日ものすごい人が命を失っています。イスラエルとガーザ地域、イスラエルとイランがミサイルを飛ばしています。中国は台湾を宣言しています。これを聞くと、日本でよかったと思います。隣の韓国も、北朝鮮が国境のほうに、大量の武器を配置していて、いつ何が起こってもおかしくない状態になっています。11節をご覧ください。大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。この御言葉は日本に住んでいる人に、一番恐怖になっています。皆さん、ほかの国で、日本旅行注意になっていることをご存じですか?日本のメディアでは報道されないので、日本人だけはわからないです。日本では、死亡率30%の人殺しバクテリアが流行っていて、かかったら、3人一人死ぬ病気が今はやっています。知らなかったでしょう。つい最近はコロナもありました。このように災難が連続して起こると人々は恐れるようになります。エルサラムが滅亡する前も、まったく同じことがありました。大体、いきなり滅びることはあまりなく、滅びる前に、数多くの災難が発生します。

 

それではこれらの災難にはどんな意味があるでしょうか。災難は終末の前兆であり、神様の裁きに対する警告です。そして、私たちクリスチャンにとっては信仰を精錬するものです。人々は困難な時には神様を捜しますが、平安な時には神様について無関心です。しかし、災難が起こると自分の人生について真剣に考えるようになります。この世のものが空しいものであることを知るようになります。神様は災難を通して人々が自分の罪を悟り、悔い改めて神様に立ち返ることを願われます。災難は私たちクリスチャンには神の国に対する生ける望みを与えてくれます。

 

本当にそうであれば、災難の時、われらは怖がることがありません。明日、富士山が噴火するというニュースがあったら、人は恐ろしさのあまり、不安で震えますが、私たちは、主の国が近づいたと思い、この世のむなしさをもう一度悟り、天の国への希望を強くするでしょう。

12節をご覧ください。しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。」エルサラムの滅亡の前に、クリスチャンたちが誤解され、迫害を受けると予言しています。イエス様がなくなって、クリスチャンたちが多く迫害を受けました。律法学者と祭司長からです。当時、パリサイ人、祭司長たちは、ローマ寄りのグループでした。ローマ皇帝のために、いけにえを捧げているくらいでした。それで、神殿に人々が十分の一とかの献金をすると、ローマの銀貨に変えて、それを保管していました。ローマの大体なバックグラウンドを持って、イスラエルの権力を握ったかられには、このお金は力になっていました。ローマの銀貨を言えば、思い出せるものがありますね。カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますかと質問した、律法学者とパリサイ人に、イエス様は、カエサルになっているものは、全部カエサルに返しなさいと言いました。税金云々じゃなく、彼らが頼りになっていたすべてのお金を捨てなさいという意味でした。そして、あなたが神様のものであることを悟りなさいと言いました。この御言葉により、彼らはどんなことがあっても、イエス様を殺そうと覚悟しました。それだけではなく、イエス様についていくクリスチャンも迫害を始めます。イエス様を信じるだけで、こんな不利に会うと嫌になりますね。

 

13節をご覧ください。それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。迫害を受ける時にキリストをあかしする機会となります。14,15節をご覧ください。ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。」聖霊は言うべき言葉を与えてくださいます。

 

16,17節をご覧ください。イエス様は一番耐え難い家族の迫害についても言われます。あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。」愛する家族から迫害を受けることは耐え難い苦しみです。しかし、このような迫害や苦難を受けてもイエス様の弟子達はどんな信仰を持つべきでしょうか。18,19節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。」私たちは主が髪の毛一筋も失われることがないように守ってくださいます。そして、その信仰を持って忍耐することによって、自分の命を勝ち取ります。軍隊では、攻撃が最大の防御だといいますが、イエス様は、人間が勝利だと言っています。混乱な状況になると、われらは我慢することができず、すぐ人間的な方法を探してしまいます。主の約束はあまりにも、遠いと思っているからです。しかし、忍耐することによって、いのちを勝ち取るようになります。

 

これからイエス様はエルサレムの滅亡について言われます。20節をご覧ください。「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」エルサレムはすさまじい包囲攻撃のあとで、紀元70年ついにローマ軍の手の中に落ちました。その間、住民は実際に共食いをするまでになり、市内は文字通り石の上に石が残ることのないほど、徹底的に破壊されました。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、百十万人という信じがたい数の人々が包囲攻撃の最中に死に、九万七千人が捕虜として連れ去れた、と報告しています。ユダヤ人の国は抹殺されました。神殿は焼かれて廃墟とされました。21節をご覧ください。そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。イエス様の言われたとおりに堕落した都から山へ逃げた人々は救われました。しかし、自分なりの判断によってエルサレムを離れなかった人々はみな滅びました。エルサラムのほうが隠れるところ、自分を守れる丈夫な建物があるので、皆そこに逃げようとします。エルサレム自体が800メールの瓢湖になるので、それより高い山があまりなく、イエス様の言葉は間違っている聞こえますが、山のほうに逃げた人をローマ軍が追っかけることはしませんでした。

エルサレムの滅亡について予言されたイエス様は続けて人類の終末について言い始められました。人類の終末の時に、どんな恐ろしいことが起こりますか。25,26節をご覧ください。「それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。」太陽と月、星に印が現れます。揺れることでしょうか。月が起きることでしょうか。星がこの地に落ちることになるでしょうか。海では、波がつなみが起こり、東京スカイツリーを覆うかもしれません。人々は恐ろしさのあまりに、自殺するまでになります。

 

その時、イエス様はどんな姿で来られますか。27節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」週末の最後の日、すべてが終わるごろ、人々はイエス様が雲のうちに、偉大な力を栄光とともに来るのはみるようになります。雲のうちに現れることを見ると、上からくることですね。世界全員が見えるようにして、偉大な力、栄光とともにイエス様が来ます。この地で、イエス様は何の力もなく、十字架につけられて死なれました。しかし、今は、さばき主として来られます。そして、イエス様を待ち望んでいる人々には一番の慰めになります。それで、28節をご覧ください。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。この日はまさに、救いに日であり、贖いの日です。よその人にはさばきの日ですが、イエス様を待ち望んでいる人には、贖いの日です。それで、疲れたひざをまっすぐにし、曲がった身を起こして、垂れた頭を上げます。まさにこの日は栄光の日になるからです。

 

それでは主の再臨を待ち望んでいる私達はこの世でどんな生活をしなければならないでしょうか。29-31節をご覧ください。それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。」一番、初めに弟子たちがいつですかと、質問しました。それの答えです。いつこんなことがわかるかについて、われらはすでに知っています。私立ちだけではなく、すべての人が知っているかもしれません。ただ無視しているだけです。恐ろしさのあまりに、知らんぶりすることもあります。春がなると夏が来ることがわかるように、この時代がだんだん週末に走っていくことはほとんどの人が知っています。それでなのか、週末に関する映画が多いかもしれません。週末において、頼りになるものは何ですか。32,33節をご覧ください。まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。イエス様の御言葉だけです。その時は、お金が私たちを救うことができません。頼りになる人も、お母さんも、総理大臣もすべて、消えていきます。消えないものだけが頼りになります。それは主の御言葉です。34節をご覧ください。「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。」私たちの心は放蕩や深酒、生活の思い煩いで、日々つぶされています。女とお酒で、自分を失いがちです。なんで自分だけがこんなに生活が苦しいのかとその思い煩いで、押しつぶされて祈りすることも、御言葉に従うこともできません。そのような人には、突然、その日が罠にように来ます。よく文系と理系の人を比較するとき、きれいお花を見ると理系の人は、「あ、夏になるので、きれいなアジサイが咲きましたね!」と言います。しかし、文系の人はそれいくらですか!と聞くらしいです。文系の人はそれほど、生活の思い煩いで押しつぶされているかもしれません。

 

36節で言われました。「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」目を覚ましている人は、感謝が多いです。朝、起きて、雨が降ると、恵の雨だなと思い感謝します。熱い太陽の中でも、太陽の力で万物が生きるようになるのを感謝します。息子が風引いても、これによって、弱い人を助ける主を悟るようになり、健康な時は、勝利を宣言する主に感謝をささげるようになります。このような人には、週末が明日来ても、今すぐ来ても、変わることがありません。むしろできれば、今すぐ、主の再臨があってほしいと願うでしょう。私たちはいつでも、人の子の前に立つことができるように、準備されている人になる必要があります。ここで目を覚まして、祈っていなさいという方向を考えてみましょう。祈りは大事です。古代イスラエルは習慣的に祈りしました。祈り文があり、それを家族で唱えたりします。われらが礼拝終わりに主の祈り、唱える感覚です。今でもそうらしいです。そうではなく、心が動くいのり、肌で感じる祈りすることです。日々、日常のことにおいて、些細なことでも、主の意見を聞き、今自分がやっていることが主のみ旨になるように、祈ることです。そのような祈りは、力があり、もし、間違っても、主が直してくださいます。そのような人は、毎日、生き生きとして信仰の人になります。

 

人の子の前に立つことは何を意味するでしょうか?表彰式とか卒業式に学長の前に立ちます。同じく裁判官の前に立つことも同じです。人の子の前に立つことが、賞をもらうためなのか、裁判を受けるためなのか?皆さんはどんな目的で人の前に立ちたいですか?おそらく主は言うでしょう。「本当にこの世で、ご苦労だった。これから、永遠なる宴会に参加しなさい」

 

以上から、イエス様は人の子の前に立つために、目を覚ますように言いました。イチジクを見て判断するように言われたイエス様のことで、自分なりにこの世を判断すると確かに、戦争や地震、飢饉や紛争が蔓延しているこの世です。イエス様が偉大な力と栄光をもって、くる時期が間もないと感じています。これは、恐れにも、不安にもなりません。むしろ、贖いが近づいています。それで、私たちは、今でも人の子の前で立つことができるように、いつも目を覚めして祈ります。終わりの日、皆さんと全員で、人の子の前に、両手を伸ばして立つ人になるように祈ります。

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