2023年ルカの福音書第38講
みこころがなりますように
御言葉:ルカの福音書22:39-62(39-46)
要 節:ルカの福音書22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
(※録画されず、原稿をアップします。誤字・脱字はあります。メモ部分もあるので、ご了承ください。)
今日は、祈りに関する御言葉です。聖書を見ると、祈りに関する言葉が数多くあります。 今日の御言葉には、祈りに対し、2人が対照的に出ています。祈るイエス様と祈らないペテロ、この2人の祈りに対する姿勢はどうだったでしょうか。そして、その結末はどうなったでしょうか。今日の御言葉を通して、イエス様のように祈る人、イエス様が言われたように祈る人となるように祈ります。
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・イエス様と弟子たちの間の最後の晩餐が終わったと、イエス様と弟子たちはエルサレムの近くにあるオリーブ山に行かれました。このオリーブ山は、エルサレムから1.1Kmぐらい離れている小さな山です。40節を見ると、「いつもの場所に来ると」とあるので、イエス様にとって、このオリーブ山のいつもの場所があったことがわかる。 このオリーブ山はいつもイエス様が祈るために行かれた山です。 そして、その山には、イエス様のいつもの祈る場所がありました。 イエス様は、いつも、同じ場所に行って、いつも朝早く、夜遅く祈られました。 イエス様には、いつもの場所、すなわち、いつもの時間、いつもの場所で祈る生活がありました。
・・いつもの場所に来ると、イエス様は、弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われました。 何か、誘惑が来るということですね。この誘惑は、イエス様にも来るし、弟子たちにも来るものです。 では、このサタンの試み、そして、目の前の誘惑に対し、イエス様と弟子たちはそれぞれ、どのようにしましたか。
■■1.祈るイエス様
・イエス様は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところ(30m?)に行き、ひざまずいて祈られました。 ひざまずいて祈るイエス様の姿を想像してみると良い。 イエス様には、神様に毎日、ひざまずいて祈る生活がありました。マルコの福音書によると、イエス様は、神様にひれ伏して、祈られたとあります。 それが、イエス様のメシヤとして自分の使命を担う原動力になりました。
■では、イエス様は、ひざまずいて、どんな祈りをしたでしょうか。
・22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
・祈りって何? まず、考えられるのは、祈りは、自分の願いを求める性格を持っている。XXください。ただし、それが祈りのすべてではない。祈りは神様と関係性を維持し、この世において神様とともにしながら、神様の願われる人として生きるために神様が与えてくれた最強の手段(?)。すると、当然、自分の願いだけでなく、神様は何を願っているのかを知り、それを従うための祈りも必要。これこそ、究極的な祈り。
・イエス様の祈りの内容を見ると、、、イエス様の前には杯があります。そして、イエス様の願いは、この杯をイエス様から取り去ることです。 すなわち、この杯、イエス様が捉えられ、鞭うたれ、十字架つけられ死なること、この杯がイエス様に来ないこと、これがイエス様の願いです。木にかけられ、すべての呪いと罪を背負い、代わりに死ななければならないことも、あまりにも重いプレッシャー、十字架でした。 イエス様の気持ち、イエス様のほんね、それは、この十字架を避けたい。
・ところが、イエス様の願いだけではなく、父なる神様の御心があります。 父なる神様の心は、イエス様がキリストとして、十字架につけられ、人々の代わりに死なれることです。
・イエス様の目の前には、2つの道があり、イエス様の願いと父なる神様の心は、正反対になる。 どちらかを選ぶしかな。真ん中をとることはできない。それも、時間は迫っている。 そのなかで、イエス様の祈りは、今の自分の願いと神様の心に対し、話している。
・この杯を取り去ってほしい。でも、父なる神様の心に従いたい、、、どうしましょうか。神様! 祈りはある面で、本当に気持ちが語ることから、、、美しい言葉で飾るのではなく、本当の気持ちを打ち明け、神様と話し合う。
・私たちは、人生の岐路に立っているとき、人生を変える選択をするときもある。信仰によって生きようとする人に、神様は決断を要求する時がある。その時、信仰の人は、神様に従うことを選びました。 アブラハムは生まれた故郷を離れ、神様が示す地へ行く。出エジプトをリードしたモーセも、何も頼れるものがない中、神様の命令に従いました。・ダニエルも、捕虜として捕まえてきたとき、王の食べ物を自分を汚すまいと決断、祈れば殺されることを分かっても祈る。・イエス様の弟子たちも、家族や家のすべてを捨ててイエス様に従った。 人生の岐路に立った時、信仰によって神様が喜ばれる道を選ぶ人、その人の人生は、悔いることがありません。その道は、主が認め、主が責任をもって導いてくださるからです。
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・43,44をご覧ください。 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕
・イエス様が神様に従おうとすると、御使いたちも天から現れて、イエス様を力づけました。 そして、イエス様は、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。どれぐらい切に祈られたか、汗が血のしずくのように地に落ちるほどでした。 ・血がしずくのように地に落ちるほどとは、汗が玉になって落ちるだとも言えるし、あるいは、血汗症が起きたとも言えます。すなわち、死を直面しているプレッシャーのなかで、神様に従おうと必死になっているイエス様は、その皮膚から汗が出てその汗に血が混ざって出るぐらい祈られたということです。
・あまりも苦しみもだえ、うめきをもっておられるイエス様の姿をうかがえます。 私たちの間の祈りでも、そのようなことがあるかもしれません。例えば、旧約聖書のサムエルの母であるハンナは、うめきをもって、切なる祈りをささげると、同時の祭司長はハンナが昼間からよっぱれていると思うほどでした。
・私たちは自分の前にあるプレッシャー、そして、この限界の前にどうすればよいか。どうすればよいか、自分の力ではどうしようもない時があります。切なる人生の危機、人生の岐路に立っているとき、自分では、もう、限界だと感じる時があるでしょう。 ・主の御霊は、私たちのうめきをもって、とりなしてくださると聖書は言っています。 私たちがうめきをもって、苦しみもだえ祈るとき、聖霊は、私たちのために、うめきをもってくださいます。 私たちの信仰生活も、限界だと感じる時もあるでしょう。苦しみもだえる時もあります。苦しくなると、弟子たちのように、押しつぶされ、横になってしまう人が多いです。 では、その限界に達したとき、私たちは、どうやってそれを乗り越えることができるでしょうか。どうやって、この限界を突破することができるでしょうか。
・イエス様は、この限界に達したとき、どうしても、自分の願いがあり、神様の御心に従うことが難しかった時、汗が血のしずくのように地に落ちるぐらい切に祈られました。 従ごうと、どれぐらい力を入れ、祈りの戦ったでしょうか。イエス様は、どうすれば神様を喜ばせることができるのか。何をすれば神様が願われる道を歩むことができるか。 そのため、必死に自分の心を捨て、父なる神様に従おうと闘争しました。
・イエス様は、全身全霊で祈り戦いました。・今まで毎日、朝から晩まで祈ってこられたイエス様、この最後の瞬間、この最後の命で神様にすべてをささげ、神様に従おうとしました。 苦しみもだえながらも、イエス様は、自分の気持ちより、父なる神様に従おうと祈った。 神様がなさろうとすることを従うための闘争。 ほかの福音書を見ると1H×3度。
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・そして、イエス様は祈りに勝ちました。神様に従うことを決断した。 祈りに勝利し、、そのあとは、堂々と十字架の道を歩む。どんな試練があろうと、どんな辱めがあろうと、どんな苦しみがあろうと、神様の心に従う。耐え忍び、救いを完成する。 神様は、祈る人を使います。苦しみもだえても、主の前にひざまずいて祈るなら、主は、それをご覧になります。 そして、その人に神様の栄光を表してくださいます。
■■弟子たちは?
イエス様がオリーブ山に来た時、弟子たちに言われます。40b 「イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。」 イエス様は、弟子たちが誘惑に陥らないように祈りなさいと言われました。そのあと、イエス様は祈りを始めました。その間、弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまいました。 おそらく、弟子たちは、最近のイエス様の言葉や行動がおかしいと感じたでしょう。先週のことばであったように、これが最後だ、もう、一緒に過ぎ越しを祝うことはない、もう、別れる、それに今のイエス様の祈りの声でさらにストレス 。何か具体的にはわからないが、何か嫌なことを感じる。イエス様は、いやなことを言っている。自分たちは受け入れたくない。・イエス様の言葉通りだと、自分たちは、どうなってしまうのか。すべてを捨てて従って来たのに、すべてが無駄? そのため、悲しくなって悲しくなって、見えないプレッシャーで、疲れてしまい寝込んでしまいました。
・そこで、祈り終えられたイエス様は、帰ってきて言われます。46をご一緒に読みます。「そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」 イエス様のことばを見ると、しつこいですね。 先ほども、イエス様が祈りを始める前に「誘惑に陥らないように祈っていなさい」 もう、夜中2時ぐらいはなったと思うのに、また、眠りの弟子たちを起こし、同じ言葉で 「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」
■(ここで、イエス様の繰り返しの言葉が2つ:誘惑、起きて祈る)
・ここで、私たちの人生には、誘惑というものがあることがわかります。 ・イエス様は、私たちがイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追って、毎日イエス様に従うことを命じた。イエス様を信じる人は、このイエス様の道を歩みたい。しかし、この道が楽な道でないかもしれない。これには、誘惑があるから。自分の願いというものがある。自分の願いがあり、その願いのところに誘惑されると、人は、その誘惑に負け、溺れることになる。
・サタンとイエス様を試みた。例えば、40日断食後、パンの誘惑、名誉の誘惑、権力への誘惑。 ・イスカリオテユダは、イエス様をお金をもらって売ってしまった。弟子たちは、一人残らず、イエス様を捨て、イエス様から逃げた。
・ペテロは、どうだろう。先週の御言葉で、イエス様は弟子たちが自分を捨てることを言われると、ペテロは自分は違うと言った。私はイエス様のためなら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできている。 彼は自身があった。信仰に自信があった。 しかし、このようなペテロにイエス様は言われた。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」 このイエス様の警告の言葉を聞いて、イエス様が、誘惑に陥らないように祈っていなさいと、繰り返し、祈りなさいと言われても、彼は、なぜ、イエス様は、そこまで、うるさく祈りなさいというのか、わからなかった。私は、イエス様のためなら、死んでもよい。覚悟はできているのに、、、なぜ、イエス様は私の信仰を認めてくれないのかと思ったんだろう。
■聖書を見ると、イエス様は、イエス様を信じる者に、繰り返し、祈りなさいという。
・イエス様は、誘惑に陥らないように祈っていなさいと、繰り返し言われた。それでも、たぶん、弟子たちもペテロも、この言葉を頭ではわかっても、実際はわかってない。 そのため、イエス様が何回も言っても、祈らない。なぜ、祈らない?
たぶん、・この時間も同じく、祈りなさいと強調すると、嫌がる人はいるだろう。 信じるというクリスチャンなのに、なぜ、祈らない? それに、イエス様から警告の言葉があってもも、、、繰り返し、祈りなさいと言われたのに、なぜ、祈らない?
・1.頼れることがあると、祈らない。イエス様でなくても何とかなるし、こうすれば何とかなる。
・2.私は信じているから大丈夫、私は覚悟はできている。神様が私を愛しているから大丈夫、神様が私を守ってくれる。本文のペテロ。イエス様なら覚悟はできているし、イエス様が守ると祈ってくれた。だから大丈夫。
・3.いくら警告しても、祈りなさいと言っても、うるさいだけ。今のドラマが良い、ゲームが良い、刺激的な動画が好き、
・4.頭では認めるが、実際は祈らない。頭だけの人、頭だけおクリスチャンであり、祈る力はない。さらに祈らないから力はない。頭では信じる。 しかし、神の国は口にあるのではなく、力にあるといわれるが、その力はない。信仰の力はない人で終わる。
・でも、福音書を見ると、祈られたイエス様、祈りなさいと繰り返し命じるイエス様のことであふれる。イエス様の人生最後の1W、、この1Wだけを見ても、祈るために聖霊を与えるから私の名前を使って祈ってくれ! 祈るとこんなに力あることができる、誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさいと、繰り返し、また、繰り返し祈りなさいといる。
■なぜ、イエス様は、そこまでしつこいのか
・ペテロのことを見るとわかる。彼は、だれよりも、イエス様を愛した。先週の御言葉のように、イエス様が警告しても、私はイエス様のためなら、牢に入れられること怖くない、死ぬことも怖くない、私は覚悟はできています。大丈夫。 それでも、イエス様、彼に誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。しかし、ペテロは祈らない。なぜ、祈らない。、祈りなさいとしつこく言うのか。 うるさい?!
・でも、実際は、召使いの前でイエス様を否認、ものすごく嫌だったんだろう。そんな、自分がイエス様を否認してしまうなんて、、、ありえない。 次は、殺されようとも、イエス様を認めようと決断したんだろう。 しかし、少しあと、また、否認、、、また、自分を振り返り、覚悟を新たにする。 しかし、また、1時間後、また、否認、、、 自分も自分を分からなかっただろう。 結局、彼は、愛するのに、そのイエス様を3回も知らないと否認してしまった。そして、イエス様の言葉を思い出し、外に出て激しくないた。彼は、一生の間、夜明けの鶏の鳴き声を聞きながら、自分の失敗を思い出すことになる。
・多くの人が、ペテロのように、祈らなかった結果、泣くことになる。 泣くしかない結果を招く。 自分がいやになるぐらい絶望、悲しみ、挫折の涙を流すことになる。 その時、初めて、イエス様が、なぜ、そこまで祈りなさいと言ったのかがわかる。(なぜ、ペテロと同じく、祈らず、人生のどん底に陥れられる道を歩むのか? その結果を分かっているイエス様は、誘惑に陥らないように祈りなさいと、、今も、、なのに、私たちはこのイエス様の警告を無視する。そして、、誘惑に陥いて泣こうとするのか。)
■ (祈りは戦闘)
・なぜ、イエス様は、そこまで祈りなさいというのか。 信じているのに、覚悟はできているのに、イエス様が祈ってくれたと、イエス様も言っているのに、、と言い訳しながら祈らない。 でも、同時に私たちには誘惑が多いことを知らない。 前回の言葉では、サタンがふるいにかける。 すなわち、サタンは私たちの信仰をなくそうとする。 彼らも死ぬ覚悟で私たちを殺そうとする。 彼らの使命だから。 私たちを罪に落として入れ、この世に流れ、私たちの足がサタンによって鎖付けられ。 私たちが平和主義で戦いが大嫌いといいっても、敵であるサタンの攻撃がある。 なぜなら、これは、霊的な戦闘であるから。
・イエス様の祈りは? イエス様の祈りは、戦闘だった。そのため、ひざまずいて、涙が血のしずくのようになるまで、切に祈られた。 ・祈りが戦闘、霊的な戦闘なら、あなたはどうするか。 あなたがウクライナのように、戦闘中。そして、戦士である。 敵が前にうろうろしている。 戦車をもって襲ってくる。あなたは、のんびり、眠り、酒飲み、色っぽいみだらなことを見ながら目を奪われ、心も体も奪われたら、どうやって戦う?
・兵士が、今は戦闘中だと思わないようにするのも、サタンの仕業。 それが誘惑。 最初の人、エバを誘惑した時も、あなたのためだよ。あなたの幸せのため、、、大丈夫、、、祈らなくても大丈夫、、、神様が守ってくれる。何とかなると、、、
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・多くのクリスチャンが、イエス様に対し、覚悟はできるのに、無力に飲み込まれる。自分は戦う準備ができているはずだったのに、なんの戦いもできず、押しつぶされる。 ・覚悟だけで信仰生活はできない。一度、信じたから、それで、大丈夫とは言えない。 多くの人が、祈らなくてお大丈夫というサタンの誘惑に騙されている。 完全に武装解除され、祈る武器を奪われ、最大の武器を失って、何もない素手で戦おうとする。 ペテロは、大きな犠牲を払い、祈りがどんなに大事であるか、なぜ、祈りが必要であるかを知るようになった。覚悟だけでは信仰生活できないことを知った。 そして、そのあと、使徒の働きを見ると、彼は、完全に祈りの人と変えられた。祈りの人として、大きな神様の働きをし、聖霊は彼を通して、初代教会の驚くべき軌跡を行われた。
・彼は、後に、生徒たちに目を覚まして祈るべきであることを次のように告白する。 ペテロⅠ5:8 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」 (大失敗のペテロの言葉) 彼は、イエス様が誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさいと言われるときは、うるさい、もう、小言(こごと)は聞きたくない。うんざりだと思ったかもしれない。しかし、彼は、大きな失敗を通して、祈りなしには、何もできないことを悟った。特に、吠え猛る獅子のように食いつぶすものを探す悪魔が、えものを探しまわっていることを知った。信じる人をふるいにかけ、信仰をなくし、誘惑に陥れようする秘密を分かってからは、自分の覚悟だけでなく、祈りの人へと変えられた。神様は、このような祈る人ペテロを使い、大きな驚くべき御業をなした。
・私たちにも誘惑は多い。今は、誘惑が多い時代。身近なスマフォーはどうか? 有効活用すると、本当に素晴らしいが、それは、3歳の子供に鋭い刃物を渡すようなこと。少しだけ目を回すと、あなたの好奇心を刺激するものでいっぱい。ドラマ、YouTube,淫乱なもの、快楽的で、刺激を与える。
>ルカ21:34 「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。」 武装解除され、のんびりクリスチャンになって、生活の思い煩いで押しつぶされて生きるなら、信仰生活の危機です。 それでも、目を覚まさず、私は大丈夫と言いながら、危険状態である。自分の意志だけで信仰生活できるなら、イエス様も、そこまでしつこく祈りなさいという言わなかった。 イエス様は、私たちの信仰生活が、自分の意志や覚悟だけではできないから、神様に祈りなさいという。
・しかし、多くの信じる人は、嫌がるか、頭だけで終わる。 実際の体が主にひざまずいて祈ることはしない。 これが、サタンの最大の仕業。 祈らなければ、その人は私の餌になると、、、でも、本当に信じる人は祈る。 自分の信仰が本物か、偽物の頭だけの人なのか。それは、自分が祈る人なのか、祈らないかを見えるとわかる。 信じるなら、イエス様がなぜ、そこまで祈りなさいと言われたかがわかる。そして、そのイエス様の言われた通り、祈る。
■結論的に
・イエス様も信仰が試された。ペテロも試された。しかし、その時、結果ははっきりと分かれた。イエス様は、ひざまずいて祈り、自分の願い通りではなく、父なる神様の御心に従おうと、切なる祈りをし、そして、祈りで勝利し、堂々と十字架の道を歩んだ。ペテロは、誘惑に陥らないように祈りなさい、祈りさいと警告を無視した。結局、彼は、人生最大のミスをしてしまった。あなたは、イエス様のように祈っているか、それとも、ペテロのように、無視し続けているのか。その結果は、必ず、ペテロのように大泣きになる。今は、まだ、チャンスがある。私たちが祈る教会、神様の御心に従うために祈る教会となるように祈る。
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