2025年3月9日、ホセア書4:1-6:3、【主】を知ることを切に追い求めよう

2025年ホセア書第2講(♪359)
(録画できず、メッセージを載せます。誤字・脱字などはご了承ください)

【主】を知ることを切に追い求めよう

御言葉:ホセア書4:1-6:3

要 節:ホセア書6:3  6:3 私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる地を潤す、後の雨のように

今日は、神様とイスラエルの関係における問題について学ぶ。 「関係」というと、人間と人間の間の関係も結構大事ですね。人と人との関係で大事なことはなんでしょか。私は、かなり苦手な部分なので、私が何か語ることは難しい話になりますが、その多くの部分では、信頼というものがあるだろうと思います。では、神様との関係においてはどうでしょうか。今日は、神様とイスラエルの関係において、神様が指摘するイスラエルの問題点を3つに分けて学ぶ。 4:1をご覧ください。「イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。」 神がこの地に住む者たちを訴えます。その訴える理由は3つあります。真実がない、誠実さもない、神様を知ることもない。 この3つが何かについて学びましょう。

■1.真実もないイスラエル

▲・ここで、真実とは、なんでしょうか。真実、、、普通、真実であるか、どうか? と言う言葉をよく使う。 聖書で神様が言う真実とは、神との契約のもとに生きる正直さのこと。あるいは、信頼出来るか? 人と人との間でも、人が真実かどうか、それは、かなり大事なこと。 誰かと関係を持つと言うのは、この真実さが大事。 正直である、相手を信頼できるか。これは、誰かと関係を持ち、神様との関係を持つことにおいては、とっても大事なこと。

・私たちは、神様を信じます。そして、神様が喜ばれる人として生きることを願っています。そして、御言葉を読み、今のように礼拝も捧げます。自分の願いごとを祈ります。「~をお願いします。~になることを祈ります。」 その時、それが、私たちの本音なのか、ことばだけの祈りなのか。考えたことがありますか。 「いや~、自分が願っているから、祈っているし、願っているから、そのようになることを祈るでしょう。話になりませんよ。」 というかもしれませんね。 では、自分の言ったこと、願っていたことが正直であるか、あるいは、信頼できるかに観点ではどうでしょうか。 本音か?ことばだけか? 「〜を願います」と言うけど、、、本当に?本音なの?

・人と人の間で、もし、相手が真実でない人だと? この人の話を信じて良いのか・信じてはいけないのか。 言っていることは、本当であるかのように聞こえるけど、いつの生き方を見ると、信頼できない時があると思います。それで、この人が、今、言っていること、信じて良いのか。今回は、気持ちだけの言葉、一時的な感情を語ることなのか、判別がつかない時がある。(それで、多くの人が、相手の言葉だけを信用し、おれおれ詐欺に騙される)。

▲では、神様と関係で、真実さ、信頼できるか・どうかは、どれぐらい大事? ・エレミヤ書 17:9-10「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」 人の心は、世の何よりもねじ曲がっています。ほかの翻訳では、世の何よりも汚れていると訳している。あまりにも、2重、3重、、、次々と重ね、重ね、ねじ曲がっていて、とっても癒しがたいのが、人の心です。そして、その人の心を誰も知ることはできません。自分の心なのに、自分自身も、自分の本当の心を知らない。すなわち、自分の心の奥底からの願いは何かを知らない。何よりもなじ曲がっていて、腐敗している、偽りのものが私たちの心。ところが、私たちの心を造られた方は、その心を探ることができます。私たちの心と言う箱を造られた神様は、私たちの心の奥に入っていることが何かを知っておられます。そして、私たちが本音を言っているのか、ねじ曲がった心からの言葉、願いなのか、私たちの心の奥をだめします。そして、それぞれその生き方、その行いの実によって、それが真実な心だったのか、ねじ曲がった心からの話だったのかを判断します。

・イエス様も、私たちの言葉ではなく、私たちの実りを見れば、その人がどんな人であるかを知ることができると言われました。 また、パリサイ人と収税人の祈りについて、教えられました。パリサイ人は、自分は正しく生きようとする、そして、そのため正しいこともする、だから、私はあの収税人のようでないことに感謝します。と言いました。しかし、収税人は、神様をまっすぐに見ることもできず、私のような罪人を赦してくださいと、自分の惨めさ、自分の罪深さを告白するしかありませんでした。 人の目で見ると、誰が見ても、パリサイ人が正しい人で、真実な人で、義人と呼ばれるはずです。しかし、神様は、パリサイ人でなく、収税人が真実な人、義人であると認めました。 彼は、心から自分の惨めさ、罪深さを悟り、主に立ち返ったからです。

▼信仰生活、、、約40年なるが、、、その年月のともに、分かっていくこと、、、、最近、もっと分かったこと、、、それは、私が、いかに、主にとって真実でないか。自分なりには、主の主のみことばに従い、主のために生きると願う。。。と言ったのに、そう思う直したはずなのに、、、結局、からっぽの殻だった。主にとって、私は真実?朴アブラハムという人は、信頼できる人? 私がもっと、収税人のような心をもって、真実な人として、主の前に立つ生活となるように。

 

⬛2.誠実さもないイスラエル

・北イスラエルの2番目の咎めるべきことは、誠実さがないことです。 「誠実」[ヘ]ヘセド)は,契約に対し忠誠・献身・熱意があるか。神様の前での人間の敬虔・聖さを意味する言葉。また人間と人間の間の恵み、慈愛の概念をも伴う。なので、翻訳によって・または、文書の流れによっては、神様への忠実さ・熱意・聖さの意味で翻訳されたり、人間と人間の間の慈愛として翻訳されたりすることば。これは、おしらく、神様への忠実さ・聖さがないことは、人間と人間の間での慈愛もないことを荒らすのではないかと思われる。

 

・本文では、「誠実」という言葉に訳していて、神様への誠実さがないことを表している。それが、結局は、北イスラエルの人たちにとっては、人間と人間の関係が崩れてしまうことになった。これは、旧約聖書で大事に教えること、、、すなわち、神様への信仰、神様への忠実さ、熱意がなくなると、その崩れた信仰のゆえに、世の人々と同じくなる。偶像崇拝をし、物質万能主義によって、お金と快楽を求める人へと変わってしまう。そこに、人への慈愛は期待できない。

・神様への誠実さを捨てたイスラエルの生き方は、どうだっただろう。先週の御言葉では、浮気と淫乱な生き方がばれて、裸にされ、さらし者になるしかない姿について学んだ。その具体的な例が、2節に書かれている。「呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」 神様を捨てたイスラエルの人々は、神様の十戒の戒めも捨てました。彼らは、神様の名によって隣人を呪いました。人々を欺き、嘘をついて、人を殺し、人のものを盗みました。姦通と姦淫がどこにでもあり、人々の血を流すのが、普通の社会となりました。その社会は、もう、普通に生きることを拒む社会、壊れた破滅の社会となりました。

 

⬛3.神様を知ることもないイスラエル

・イスラエルの人々は、自分たちは神様を知っているつもり。なのに、神様は、彼らが神様を知らないと言っている。 そうすると、神様を知るとは何か、考えさせることになることば。 神様を知ることについて、4:6以後に書かれている。 4:6を読みます。「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」 神様の民であるイスラエルは、知識がないので、滅ぼされる。ここで、知識というのは、定冠詞がついていて、神の言葉の知識,神の教えを意味する。 すなわち、イスラエルが滅びるのは、神様への知識、主の教えを捨てたから。 彼らが神様を捨て神様の教え、御言葉を捨てたので、神様は彼らを捨てる。彼らが神様の教えを忘れたので、神様も彼らの子供、子孫を忘れるという宣告。

▲人にとって、何が大事であるか、、、、いろいろ、言えるだろう。そして、何かをやることになった時、なにかを熱心にやっる以前に大事なことがある。 ▼何かの確かな目的のため、旅をする。ある人が、遊びたい計画をたて、お金をためた。遊びに伊豆半島でも行こう、2泊3日で行こう。旅行案内サイトを調べ、1日目何、、2日目、帰りの日は、、そのすべては徹底的にたてた。お金も十分である。出発信号! じゃ、何が大事か。小田原行きの電車に乗る。 なのに、山梨に向けて そのコンパス、羅針盤の方向は正しいか?! 旅行の行き先が間違ったら、笑って終わることもあるかも。正しく知らなければ、方向が間違って、偉いことを招く。

▲5章には、神様に捨てられた彼らの恐ろしい裁きの内容が続きます。14節を見ると、神様は彼らの娘が姦淫をしても罰することはしません。彼の嫁が姦通をしても、罰しない。男たちは遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえを献げているどんでもない社会になりました。その結果はなんでしょうか。 14b「悟ることのない民は滅びに落ちる。」 結局、神様は、200年の間、彼らに立ち返ることを繰り返し訴えました。預言者のエリヤ、エリシャ、イザヤ、アモス、今のホセアのような預言者を続けて送り、主を知り、主に立ち返ることを促しました。しかし、彼らは、悟ることはありませんでした。16節で「まことに、頑なな雌牛のようにイスラエルは頑迷(がんめい)だ。」あるように、彼らは、頑なな心で、悟ることがありませんでした。主の教えを拒み、心は頑ななで、固まっていました。彼らの関心は、ひたすら、富と快楽を求め、自分の欲を満たすこと、そのためなら、手段を選びませんでした。どんな手段でも、どんな生き方でも良い、人を騙し、人を殺し、血を流してでも、財産を増やし、楽しむためなら、どんな思想も良いと思いました。結局、神様の教え、十戒の教えは、その時代の人にとっては、時代遅れ、ありえない偏った思想にしかなりませんでした。結局、主の教えを捨てた彼らは悟ることもなく、滅びに落ちるしかなかったのです。

・5:14bを見ると、神様に罰を受け、引き裂かれ歩きます。さらし者となった彼らを助け出すことができる人はいません。結局彼らは、この罰を受け、神様を思い出すことになります。5:15節「わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」 神様に罰せられ、すべてが閉ざされ、自分ではどうしようもない状況になると、彼らは、神様のことを思い出すことになります。

▲6:1-2をご覧ください。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。 2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」 この御言葉は、2:7b「彼女は言う。 『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。」 を連想させることば。 イスラエルは、自分たちが神様から離れ、神様を知ることを捨てた結果、どんなに惨めなことになったことか、知るようになります。それで、主に立ち返ることを願います。(本文で、彼らが、どれぐらい真実さをもって、立ち返ろうとしたかは、見方によっては、形式的な立ち返りではないかと思うこともありますが、、大事なのは、立ち返ろうとする彼らの心。そして、ホセア預言者も、神様も、彼らが主に立ち返ることを待っておられること。)

▲・イスラエルが神様を離れ、主の教えを捨てた時、彼らは引き裂かれた。しかし、立ち返るなら、彼らを癒される。そして、打たれた傷も包んでくださる方。主に立ち返るなら、主は、2日の後に生き返らせ、3日目に立ち上がらせてくださる、神様の回復が待っている。そして、その後は、主の御前に生きることができる。神様は、放蕩息子が帰った時、彼らの罪、彼らの咎を咎めることなく、あるがまま、受け入れてくださった。その帰って来た日から、彼は、息子としての身分を回復し、その家の息子として、愛する息子として生きるようになった。 これが神様の心。

▼神様は、私たちを待っておられる。私たちが神様を拒むときは、私たちが主を知り、主に立ち返るように、時には、厳しくされる。私たちの人生を引き裂き、私たちの痛いところを打たれる。それは、私たちが主に立ち返ることを願う主の働き。そして、立ち返るなら、どんな人をも受け入れてくださる。先週の御言葉のように、たとえ、夫に愛されながら淫乱と浮気をしていたゴメルを愛したホセアのように、何も言わず、受け入れ、赦してくださる。これが、神様の限りない愛である。ホセアがゴメルを買い戻すため、大きな犠牲を払ったように、神様は自分の一人子を十字架に死なせるまでにしてでも、私たちを救ってくださった。誰でも、このイエス・キリストを受け入れるなら、その人の罪が赦され、神様の子供としての身分が変えられる。古いものは過ぎ去って、新しく造られた、新しい人として人生、主に愛される者として生きる道が開かれる。これが、神様が私たちに与えたい恵みの世界。

▲6:3節をご覧ください。「3 私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる地を潤す、後の雨のように。」 神様は、どんな方であるか、神様を知ることを切に追い求めると、どうなるでしょうか。主は、生きておられます。そして、主を切に求める者に、ご自分がどんな方であるかを現わす。エレミヤ29:13 「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」 心を尽くし、真実をもって主を探し求めるなら、その人は、必ず、神様に出会うようになる。神様は、その人にご自分を現わすからだ。もし、この意味がよくわからなければ、この御言葉のように、神様を知りたい、あなたに会いたいと心を尽くし、切に求めてみると良い。神様は、ご自分の名前にかけて、必ず、会ってくださる。神様は、切に求める者に、暁のように確かにご自分を現わしてくださいます。その確かさをどこに表現すれば、良いか? 世の中で変わらないこと、、、うん、何があっても、変わらないこと、、、それは、朝、太陽が昇ること。 朝日が、朝になると、必ず上るように、神様は、確実に、ご自分を現わします。大雨のように私たちのところに来られます。地を潤す、後の雨のように、恵みの雨、うるおいの雨をもって、来られます。

▼ここに、聖書を読む必要がある理由:神様がどんな方のか、神様は何を喜ばれ、何を忌み嫌うのか。それ知らず、神様とともに生きることができるか。神様に恵みを受け、称賛されることができるだろうか。それは、自分が造った神様の概念であって、聖書でいっている神様でなかったら、それは、神様を知ることでなく、本文に出ているイスラエル、偶像崇拝のイスラエルと同じ。彼らは、自分達では神様を知っている、信じていると思っていた。しかし、それが、神様からみれば、でたらめ。。

■ところで、3a「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」と言う。切実さについて考えてみましょう。 私たちの人間は、北イスラエルのように、自分が豊かになり、何か自分の夢が成し遂げられ、困ってなければ、そこまでは、主に対する切実さはない。真実さも、誠実さもなく、なんとなく、神様に礼拝し、なんとなく、信じる。 私たちの神様への真実さ、誠実さ、主を知りたい切実さは、どれぐらい? 聖書を調べ、祈り、従ってみる。そして、神様と会話しながら、神様に聞いてみる。 「神様!、あなたは、どんな方ですか? あなたは、どんな方ですか。何よりも、私はあなたが、どんな方なのか知りたいです。教えてください。あなたは、どんな方ですか。きょうの礼拝のことばでは、主を知ることを切に追いもめようとしましたが、あなたの本気度、あなたの真実さを知りたい。あなたの切実さを私も持ちたい。」 喉が渇いている鹿が水を慕い求めるような、切実があれば、その人は、後の雨のような主の訪れがあります。そこに、うるおいがあります。

▲私たちの信仰生活において、真実さと、誠実さは、どれぐらい大事でしょうか。 申命記 8:2 「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」 この御言葉が、今日の御言葉、切実さ、誠実さ、神様を知ることについて語っている。 神様は、カナンの地に入るイスラエルに対し、神様が導いた道を覚えなさいと言う。それは、神様がどんな方なのかを覚えること。神様がどんな方であるか知り、覚え、そして、語り続けるため。そして、主の命令を守るかどうか苦しめ試したというのは、主への誠実さのこと。そして、あなたの心のうちにあるものを知るため、あなた方を苦しめ、試したのは、彼らが、いかに真実かを知りたかったこと。 すなわち、神様はイスラエルの民を40年間、訓練し、彼らに、神様への真実さ、誠実さ、神様を知ることを教えられた。

・ある面で、私たちの信仰生活は、神様に対し、真実であるかを問われる試しの場でもある。そのなかで、誠実さをもって、主の命令を守るか、どうかが試される。そして、その中で人はパンだけで生きる存在でなく、主の口から主の命令・主の御言葉によって生きる存在であることを知るための、訓練の場でもある。

・イエス様は、諦めず続けて祈る求めることを、私たちに繰り返し強調した。戸を叩き続けて、、、これは、本気度にかかわる。その願いが真実か、どうか。その切実さは何かの形で現れる。その切実さは、本当だったのか、偽りだったのか。本気でなかったのか。。その真実さは、主に試される。主は、私たちが切実な心で神様を知ることを求めて欲しい。それは真実な切なる心であることを知りたい。神様が、あなたに、あなたの切なる心は本当か?その切なる願いは真実か?を知りたがる。 「あなたはわたしを信じると言うけど、あなたが本当に私を信じるか、言葉だけなのか、あなたの真剣さ、あなたの本気度を知りたい。 わたしは、あなたの切実さを知りたい。」 神様があなたの切なる心、その真実な心を知りたくて、今ためせいているとしたら? それが、一時的な感情的な心ではなく、心の奥底からねがっていることなのか。一時的に恵みを受け、感情的に切なる心は、無視はできない。だが、それが続かないなら、それきりで終わり。続かなければ、実りもない。 しかし、真実さをもって、切実に主を知りたいと願い求めるものには、必ず、ご自分を現わす。

▲・結論的に、神様は、真実さと誠実さをもって、今まで、私たちの人生を導かれた。その真実さと切なる心をもって、私たちのために、自分の一人子さえも惜しまず、死に渡され、私たちに救いの道を開いてくださった。この真実神様に頼るものは、失望することはない、なぜなら、ご自分の一人子を犠牲にしてでも、私たちを救おう決心し、それを涙ながら実行に移した方だ。自分の一人子を失っても、救いたい人が、私たち、みなさんである。神様は、この私たちに対し、どれぐらい、真剣であるだろうか。どれぐらい真実をもって、今も働くだろうか。どれぐらい切実な心で、私たちの人生にかかわり、私たちの祈りを聞いておられるでしょうか。私たちが真実さと誠実さ、そして切なる心をもって、主を知ることができるように。

 

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